【本日の名言】「優れた能力も機会なくしてはとるに足りない」by ナポレオン とは フランスの軍人 皇帝 の ナポレオン による言葉だが、その意味・解釈・教訓とは?ナポレオン1世こと皇帝ナポレオン・ボナパルトとはどんな人物?そのほかの名言や関連する本などを紹介
目次
【本日の名言】「優れた能力も機会なくしてはとるに足りない」の意味・解釈・教訓とは?
この言葉の参考出典は ナポレオン1世こと皇帝ナポレオン・ボナパルトによる 『語録』 より
「優れた能力も機会なくしてはとるに足りない」の言葉の意味とは?
優れた能力も機会なくしてはとるに足りない
『取るに足りない、(足らない)』とは、問題として取り上げるほどの価値がない。問題にもならないという意味
優れた能力も
機会が与えられなければ
価値がない
優れた能力があっても、それを活用する機会がなければ役にたたない。
(英語)
Ability is nothing without opportunity
Ability:才能、手腕、実力、力量、〜できる能力
Opportunity :機会、好機、チャンス
優れた能力も機会なくしてはとるに足りないから得られる教訓としては??
どんなに優れた能力や才能、実力をもっていたとして、その能力が十分に発揮された上で、効果を持つためには、しかるべき、場所、しかるべきタイミングという機会が必要である。
優れた能力を遺憾なく発揮するためには好機に恵まれる必要がある。
せっかくの能力を無駄にしないためにも、常に機会、チャンスに巡り合う努力をする必要がある。
ナポレオン のその他の名言や関連本おすすめ
佐藤 賢一『ナポレオン』【全3巻完結】セット
離島出身の男が、一代でフランス皇帝へ。彼はいかにして「英雄」となったのか。フランス国民を熱狂させたカリスマの素顔とは。ナポレオン生誕250周年に、西洋歴史小説の第一人者が満を持して放つ、英雄小説の決定版!
『新約ナポレオンボナパルト』「吾輩の辞書に、不可能の文字はない」名言で知る皇帝の栄光と失脚。 (10分で読めるシリーズ)「吾輩の辞書に、不可能の文字はない」と豪語した男現在フランスでは、豚に「ナポレオン」と名付けることを禁止している。ナポレオンのイメージを損なうと思われているからだ。そう、彼はフランスの英雄なのだ。自分の人生において、すべてのことが可能だと信じて突っ走った男だ。しかし、彼の人生も、そしてその後の評価も決して順風満帆なわけではなかった。実際彼は人生の晩年、失脚して大西洋の孤島へ幽閉された。そしてそこで人生を終わらせているのだ。それまでの派手な人生から比べると、かなり寂しい最後だった。彼はかなり優れた軍人であった。そして優れた政治家でもあった。一時は、ヨーロッパのほぼ全土を掌握したこともあったのだ・・・
ナポレオンによるその他の名言
ナポレオン1世こと皇帝ナポレオン・ボナパルトは非常に名言が多い人物である。
誰もが一度は耳にしたことがあるかもしれない。
「愚人は過去、賢人は現在、そして狂人は未来を語る」
「約束を守る最上の方法は 約束をしない事だ」
「三つの敵意ある新聞は千の銃剣よりも恐ろしい」
「不可能という文字は愚者の辞書にしか存在せぬ」
「醜い女は我慢できるが高慢な女は辛抱ならぬ。」
ナポレオン・ボナパルトとはどんな人物?簡単に解説
Napoléon Bonaparte
ナポレオン・ボナパルト
1769年コルシカ島にて誕生〜1821年セントヘレナ島で没(享年51歳)
フランス革命期の皇帝・軍人・英雄・政治家
ナポレオン・ボナパルト(ナポレオン1世)はコルシカ島のイタリア系の地主であったボナパルト家(コルシカ貴族)の出身
フランスで教育を受け、パリ士官学校を卒業
フランス革命初期にはジャコバンクラブに入会しコルシカ島独立運動に参加するも指導者と揉めてボナパルト家一族でフランスに亡命
砲兵士官となったが山岳派支持の小冊子を発表し逮捕される
1795年 パンデミールの反乱を鎮圧して再起
総裁政府によってイタリア遠征軍士官に任命されて手腕を発揮する。
この頃かにナポレオンの人気は頂点に達したと言われる。
1799年エジプト遠征から帰国後
ブリュメール18日のクーデターを断行し総裁政府を倒した。
ナポレオン自らが第一執政となり執政政府を樹立し軍事独裁を始める。
イタリア、オーストリアを次々に征服する
王党派や共和派を弾圧し、やがて帝国の成立を宣言
1804年にはついに皇帝となり第一帝政が始まった
ナポレオン法典の制定などナポレオンによる功績は
教育制度の再建、宗教協約(コンコルダート)の締結、司法の再編成、産業振興など。
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ナポレオン戦争を遂行し、全ヨーロッパの制覇を図った。
しかし、スペイン侵略に失敗、モスクワ遠征にも失敗し、解放戦争に敗れて1814年に退位しエルバ島に流刑とされる。
翌年にエルバ島を脱出し再起するも、ワーテルローの戦でイギリス軍に敗れ、これは百日天下となった。
最後はセント・ヘレナ島に流刑となり51歳没した。