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【本日の名言】まけてのく人をよわしとおもうなよ知恵の力の強きゆえなりby高杉晋作とはどんな人物・意味・解釈・教訓は?

まけてのく人をよわしとおもうなよ 知恵の力の強きゆえなり 高杉晋作

【本日の名言】「まけてのく人をよわしとおもうなよ 知恵の力の強きゆえなり」とは幕末の尊王攘夷派の急先鋒の志士高杉晋作(たかすぎしんさく)による言葉だが、その意味・解釈・教訓とは?幕末の動乱期に生き、時代を駆け抜け、日本という国を大きく旋回させながら、大政奉還も明治維新も見ることなくたった27歳でその生涯を終えた高杉晋作とはどんな人物?




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【本日の名言】「まけてのく人をよわしとおもうなよ知恵の力の強きゆえなり」の意味・解釈・教訓とは?

この言葉の出典幕末の志士・長州藩士高杉晋作(たかすぎしんさく)による
『贅御日記(ぜいごにっき)』より

まけてのく人をよわしとおもうなよ
知恵の力の強きゆえなり

この言葉の意味とは、勝負に負けて退いて行く者、撤退する人を弱いと思うな
それは知恵があるからこそ、無駄、無謀な戦いをしないというだけかもしれない
退く時を見極めることができる知恵があってこそ退くことができるのだ

勝負事や、争い事にかかわらず、物事には状況を見極め、退くべき時を見定めないといけない時がある。
そうして決断し、退いた人をただ『弱い』と決めつけるのは大間違いである。

状況を的確に判断し、それに応じて行動できるもの
それが時には引き下がるという判断につながることもある。
諦めずに努力を続けるということも時には大事ではある、しかし見込みのないことをただ闇雲に続けるのはどうか?
必要以上に気力体力を削がれるだけではないか?

ただただ引き下がれないからというだけで、
勝ちにこだわったり物事に固執し続けることが正しいことではなく、
本当に知恵のある人というものは目的に応じて状況(戦況)を判断し時には退くという決断、行動ができる人である。

「逃げるが勝ち」という言葉もある。
逃げるが勝ちと、無駄、無益、愚かな戦いや争いをするくらいなら
避けて逃げる方が結局、利益を得られ、勝利につながるということ

戦いから逃げるとは卑怯な!という見方もあるが勝ち目のない無駄な争いや、
勝ったところで何の得もないような勝負、喧嘩ならやらない方が結果、自分にとっては有利、利益となる。

「負けるが勝ち」という言葉もある。
争いごとで、相手に勝ちを譲ることで、一見負けたように見えても、勝ちを譲ったことで結局は自分に有利な結果がうまれ、勝利に結びつく。譲歩することが時には最善の成功の策の場合もある。

これらの格言やことわざから得られる教訓は・・・

決して、「負ければいい」とか「逃げればいい」という消極的なマイナスベクトルの負けや逃げではなく
プラス方向、ポジティブな方向に、前に進むための負けであり逃げであること。
きちんと考えた上で、自分にとってプラスに働くことになる負けや逃げは決してかっこ悪いことではないということ。

現代は人生100歳時代とか言われている。
まけてのく人をよわしとおもうなよ知恵の力の強きゆえなり
と言った高杉晋作が、たった27歳で死んでいった時代に比べれば
私たちは彼らの何倍も生きられる時代かもしれない。

しかし、人生なんて気がつけばあっという間である。
私自身、昔はちびまる子ちゃんと同じ小学3年生だったと思ったのに
あっという間にサザエさんを追い越して、気づけばクレヨンしんちゃんのパパを追い越し・・・

嫌なことを我慢している時間なんて人生においてもったいなさすぎる
前に進むための「逃げ」も「負け」も全然ありなんじゃなかろうか。

 

高杉晋作のその他の名言

おもしろきこともなき世をおもしろく
(高杉晋作・辞世の句)

翼あらば 千里の外も飛めぐり よろずの国を見んとぞおもふ

人は人 吾は吾なり 山の奥に棲みてこそ知れ 世の浮き沈み

三千世界の鳥を殺し 主と朝寝がしてみたい

高杉晋作(たかすぎしんさく)とはどんな人物?何をした人?

通称:高杉晋作(しんさく)
名は春風(はるかぜ)東一、和助 字は暢夫(ちょうふ)
別号:楠樹、東行(とうぎょう)、東行狂生、西海一狂生、東洋一狂生、些々など
別名(変名)谷 潜蔵、谷 梅之助、備後屋助一郎、三谷和助、祝部太郎、宍戸刑馬、西浦松助など多数

1839年長門にて誕生〜1867年下関にて没(享年満27歳)
長州藩士・幕末の尊王攘夷派の志士・松下村塾四天王の一人

長州藩士の高杉春樹の息子として誕生。

藩校明倫館にて学び、柳生新陰流剣術の免許皆伝者となる
吉田松陰主宰による松下村塾(しょうかそんじゅく)に入り
吉田松陰門下の俊英といわれた。
(ちなみに、松下村塾四天王とは高杉晋作、久坂玄瑞、吉田稔麿、入江九一の四人のこと)

藩命で江戸に遊学する

1862年に上海へ渡航視察し大きな影響を受け、欧米の植民地化する清の実情を見て
強烈に外圧を意識する結果となり、帰国後は尊王攘夷論の急先鋒となる

奇兵隊を組織することで、士族の軍事専権制を打破
(奇兵隊は百姓や町人など身分にこだわらず志願兵を集めて結成された)

イギリス、フランス、アメリカ、オランダの欧米4カ国の連合艦隊によって下関が砲撃を受け
和議交渉に入る

藩論を倒幕に統一し、薩長盟約を締結。

事実上幕府軍が敗北し1867年11月に大政奉還が行われるが

倒幕に向け戦い続けた高杉晋作は大政奉還も明治維新も見ることなく病によって27歳でその太く短い生涯を終えた。

 
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