ヨーロッパにあるオランダだけがオランダじゃない!?現在オランダ領としてオランダを構成する国としてある国々について!『世界にある国の数はいくつあるの?』国連に加盟している国(193カ国)だけが国なのか?「国連非加盟の国ってどのくらいあるの?」と色々考えてると気になってきた。世界にある国連非加盟の国(地域)をリストの中からオランダ領にある国や地域に関して。オランダ王国構成国の旧アンティルからアルバ、シント・マールテン、キュラソーのカリブ海に浮かぶオランダの国
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そもそもオランダはヨーロッパにある国だけではない!?
ふつう、オランダといえばヨーロッパの国であるというイメージが強いと思うが
実はオランダはヨーロッパにあるオランダ本土だけでオランダという国を構成しているわけではない。
ヨーロッパにあるオランダ本土の他、海外にもオランダ領としてある国(地域)があり
それらを全て合わせたのがオランダ王国を構成しているのだ。
だからオランダをあらわす、オランダ語のNederland(ネーデルランド)これは単数系
海外領土を含めたオランダ王国全体を表す時には『de Nederlanden』と複数形になる。
当然、英語でのオランダの名称も複数形の『the Netherlands』(ネザーランズ)が正式である。
このオランダの海外領土の国(地域)の歴史を調べていくと色々と
興味深かったのでご紹介したい。
カリブ海に浮かぶオランダ!?アンティル諸島が解体!
オランダ領アンティル諸島 Netherlands Antilles (NL)
2010年に解体(解散)されたオランダ領アンティル諸島は
カリブ海に浮かぶ2つの地域
- ベネズエラ北西沖に3島(ABC諸島)
- リーワード諸島に3島(SSS諸島)
の合計6島によって構成されていた
ABC諸島とは:アルバ島(Aruba)・ボネール島(Bonaire)・キュラソー島(Curaçao)3島それぞれの頭文字をとった総称 SSS諸島とは:リーワード諸島にあるシント・マールテン島(Sint Maarten)シント・ユースタティウス(Sint Eustatius) サバ島(Saba)の3島の頭文字をとった総称 |
- オランダ領アンティルの首都はキュラソー島のウィレムスタットにあった。
- 公用語はオランダ語、パピアメント語、英語など複数
- アンティル諸島の通貨はアンティル・ギルダー(ANG)
- 1954年のアンティル諸島結成時点の面積は993㎢
アルバの離脱があった1986年以降は800㎢
- パピアメント語とは(西インドのABC諸島:主にアルバ島・ボネール島・キュラソー島で使われる言語)
アンティル諸島の歴史(結成から解散まで)
1954年に結成されたアンティル諸島の島々はもともと、
17世紀からオランダ西インド会社によって占領され
軍事と交易の拠点として栄えた
カリブ海の島々が多くであったが、この島々の領有権をめぐり激しく争っていたのが
ヨーロッパ列強のフランス・オランダ・イギリスで取り合いをしていた。
1814年ロンドン条約、1815年パリ条約によって、各国の領土が確定した。
その当時はまだABC/SSS諸島などの呼び名ではなく
『キュラソー島および属島(植民地)』と『シント・ユースタティウスおよび属島(植民地)』であった。
1828年 植民地廃止に伴い、ギアナ植民地(現在のスリナム)に上記の両植民地は編入され、『西インド植民地』の一部となった。
1845年 『西インド植民地』が分割
し、『ギアナ植民地』と『キュラソー植民地』が再設置された
1863年 奴隷制度が廃止
1865年 キュラソー行政法の制定に伴い自治が限定して認められた。
1936年 憲法によって行政法が置き換えられたがオランダによる植民地支配は終わらなかった。
第二次世界大戦中のオランダはドイツの占領下
に。オランダ王室とオランダ政府は亡命した
。
亡命中の1942年オランダのウイルへルミナ女王が「オランダ海外領土の自治拡大」の声明を出していたために、
その後、アメリカ・イギリス連合によってキュラソー植民地が占領された時にも自治の要望が大きかった。
第二次世界大戦終戦後の
1948年
キュラソー植民地一帯の領域は『オランダ領アンティル』という名称になった
同時にオランダの憲法のもとにおいて、最大の自治が認められた。
1954年 オランダ王国憲章改正に伴い、
結成されたアンティル諸島は
オランダ王国を構成するオランダ本国との対等のパートナーであるとされた。
1986年 アルバ島のみ単独でアンティル諸島から離脱しアルバ島単独でのオランダ王国を構成する自治領となった。
アンティル諸島の他の島々ではこのアルバの離脱によって、離脱を求める声と現状維持を求める声が上がったが
1994年 それぞれ各島の経済格差を理由に分離を求める声が大きくなり
2008年についにアンティル諸島の解体が決定した。
2010年にオランダ領アンティル諸島は解体(解散)した。
アンティル諸島が解散分離してそれぞれ国になれたのか?!
アンティル諸島が解体後、先に離脱していたアルバ、
ABC諸島のキュラソー島、そしてSSS諸島のシント・マールテン島が
それぞれオランダ王国を構成するオランダ本国と対等なパートナー関係である構成国という形になった。
旧アンティル諸島であった残りの島々
ボネール(Bonaire)島、シント・ユースタティウス島(Sint Eustatius)、サバ(Saba)島はBES諸島と総称され、
オランダ本国に編入された。
現在オランダ王国とはヨーロッパにある「オランダ本国」+「
アルバ」
+「キュラソー」+「
シント・マールテン」のことをさす。
オランダ構成国 アルバ Aruba ってどんな国?
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アルバの歴史と近況 アルバでは麻薬取引が行われる!?
アルバ島に先住していたのはアラワク族系インディアンである。
もともとベネズエラに住んでいた彼らはカリブ族からの攻撃から逃れるために、アルバに移住した。
1499年 大航海時代、発見者はスペイン人アロンソと考えられている。
発見当時は植民地としての魅力がなかったのか、アルバ島は開拓されなかった。
1636年にオランダによって買収され、オランダによる植民地支配の時代が1805年まで続き、
一時期、英国による植民地支配に変わるも、1816年にまたオランダの植民地として戻された。
19世紀のゴールドラッシュに続き、 1924年に石油精製所が開業 し栄える。
第二次世界大戦後、1954年オランダ領アンティル州の一部となった(オランダ領アンティル諸島)
1986年にアルバ単独でのオランダの統治下のもとの自治州としてアンティル諸島から分離。
完全自治の国であるが、オランダからの1990年完全独立の動きは中止している。
アルバの
経済活動の8割以上が観光業によるもので
1年に150万人以上もの観光客が訪れる。
アルバのやってくる観光客の約75%がアメリカ合衆国からの客である。
アルバはカリブ海の周辺に比べて生活水準はかなり高く、失業率が低いためカリブ海のラスベガスとも呼ばれる。
しかし、アルバは輸入に依存しているため、世界金融危機以降、石油精製所の閉鎖などもあり
アルバは深刻な経済難を抱えているといえる。
景気回復は徐々に進行はしているが、毎年オランダ本国からの経済援助を受けている。
アメリカとヨーロッパをつなぐ
麻薬などの薬物取引の通過拠点であり、マネーロンダリングが行われている島としても名高い。
人口のかなり高い割合でコカインを消費しているとされている。(オランダは薬物寛容政策を取っている)
キュラソー Curaçao ってどんな国?
キュラソーがある場所は南米ベネズエラから55kmの北カリブ海に浮かぶ島である。
2010年から内政の完全自治が認められているオランダの構成国の一つである。
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キュラソーの歴史と近況
キュラソー島の先住はアラワク系カケティオス族
1499年 大航海時代のスペイン人アロンソによって発見された。
16世紀にスペインによって奴隷として連行された結果、キュラソー島の先住民族であったカケティオス族はほぼ絶滅。
1634年オランダ艦隊派遣、キュラソー島にいたスペイン人は抵抗するも島を離れた。
1642年 オランダ西インド会社による植民地開拓がはじまり、黒人奴隷を導入しプランテーションによる農作物の生産で栄えた。
長年、貿易戦略上の重要拠点であったキュラソーは、領土争いでフランスやイギリスからの攻撃にあったがオランダは防衛し続けた。
1815年のパリ条約によってオランダ植民地に確定されオランダ西インド会社の管理下になる。
19世紀後半に奴隷制度が廃止されるとキュラソー島は経済的に大打撃を受けたが
1915年にベネズエラの油田発見に伴い、キュラソー島に石油精製所が建てられ栄えた
。
1954年にオランダ王国憲章改正に伴い、
オランダ領アンティル諸島が結成され、キュラソー島も組み込まれた。
当時アンティル諸島の中で最も栄えていたウィレムスタットがアンティルの行政の中心となった。
1970年代のオイルショックの打撃は強く 、1985年にはキュラソー島の製油所も閉鎖に追い込まれた。
2010年 オランダ領アンティルは解体となり
、キュラソーは単独の自治の国として分離。
現在
キュラソーはオランダ王国の構成国の一つとなっている。
キュラソーオレンジを使った酒 、オレンジリキュール『キュラソー』の生産地として有名である。
オランダ本国同様に売春が認可されている国である。
キュラソーはタックスヘイブン(租税回避地)としても有名である。
カリブ海に浮かぶキュラソーと日本の意外な関わりとは?
日本から遠く離れたカリブ海に浮かぶ小島であるキュラソーだが、
実はキュラソーと日本は歴史上に関わりを持ったことがある。
それは第二次世界大戦中
ナチスドイツのホロコーストによって多くのユダヤ人が虐殺され迫害にあっていた時代、
ポーランドから逃げてきたユダヤ系難民たちに対し、大量のビザを発行し『東洋のシンドラー』と呼ばれる人物
「杉原千畝(すぎはらちうね)」という外交官がいたことを聞いたことがあると思う。
当時リトアニアの領事館にいた杉原氏は外務省の訓令に背く形で大量のビザ(日本通貨査証)を独断で数千人に発行し続け
のちに『
杉原ビザ』と呼ばれるビザは結果としてこの『命のビザ』はユダヤ人難民を6000人近く救ったことで知られている。
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この時発行されたビザは『キュラソー行き日本通過ビザ』であった。
欧米諸国がユダヤ人にビザの発行をしていない当時、オランダでは比較的ユダヤ人への偏見が少なく、
ユダヤ人向けのビザも発行していたが、オランダの本国自体はナチスドイツの占領下にあったため、
オランダの植民地であるキュラソーを名目上の行き先として日本を通過させるビザであった。
このことからこの命のビザは「キュラソー・ビザ」とも呼ばれる。
一刀両断ならぬ、一島両断された!?
シント・マールテン(Sint Maarten)ってどんな国?
オランダ王国の構成国の一つ。
カリブ海リーワード諸島にあるセントマーチン(島)アイランドの南半分がシント・マールテン
この島は英語ではSaint Martin(セント・マーチン)島と表記され
北半分がフランス領のサン・マルタン(仏語: Saint-Martin)と発音し、
南半分がオランダ語でシント・マールテン(蘭語: Sint Maarten)と呼ばれているちょっとややこしい島である。
ここではオランダ領側の国シント・マールテンについて
シント・マールテンのスローガンは”Semper pro grediens”(ラテン語で『常に発展』の意)
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シント・マールテンの歴史と近況
先住民としてカリブ族、アラワク族が住んでいた。
1493年に大航海時代コロンブスによって発見された。
この島は
サン・マルティン島と名付けられたが、スペインは植民地として開拓せず。
1631年にはオランダ人が占領。
オランダ西インド会社が塩鉱経営に乗り出した。
同時期にフランスやイギリスも進出し、塩交易に成功したのを知ってスペインが
1633年に島を取り戻した。
幾度となくオランダからの奪還作戦が繰り広げられたが、これらオランダによる奪還は成功しなかった。
1648年 スペインとオランダで80年も続いた八十年戦争(1568年〜1648年)が終結。
その頃にはスペインはすっかりこの島に興味をなくし、放棄した。
放棄されたこの島をその後、再び奪いあったのがオランダとフランスである。
全面戦争を避けるために1648年コンコルディア条約によって島を半分に分け合うことにしたがそこに突っ込んできたのは英国である。
島の支配をイギリス、フランス、オランダと奪い合うこと2世紀近くの間でこのセント・マーティン島は16回も領地主が変わっている。
1815年のパリ条約で、ようやくこの島の南半分はオランダ領であることが確定された。
他の諸地域とともに、『西インド植民地』、『キュラソー植民地』の時代を経て
第二次世界大戦終結後、1954年のオランダ領アンティル諸島の結成によって(SSS諸島)の一部となった。
1986年に同じくオランダ領アンティルだった🇦🇼アルバが単独で離脱してからというもの、
アンティル諸島の解体(解散)の要求が高まりっていった。
2000年の住民投票ではアンティル残留
が多数票だったが
2006年の住民投票ではアンティル脱退が選択された。
2010年オランダ領アンティル諸島は解体(解散)
し、シント・マールテンは単独で分離した。
シント・マールテンはオランダ王国を構成するオランダ本国と対等な関係(パートナー)の構成国という形になった。
シント・マールテンは
1950年代以降、観光産業が発展したカリブ海地域で最も人気のある観光地である。
それは一つの小さな島がオランダとフランスによって分割されているという独特な地理的特徴によるものでもある。
世界で最も小さい面積で他国と国境を共有している島
シント・マールテンのプリンセス・ジュリアナ国際空港は東カリブで最も利用者の多い空港であり
年間200万人を超える観光客が訪れるとして人気のリゾートの島である。
一人当たりの所得のは旧オランダ領アンティル諸島(6島)の中で最も高い。
世界のエアライナー セントマーティン プリンセス・ジュリアナ国際空港 DVD-Airlines
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