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【本日の名言】家は洩らぬほど 食事は飢えぬほどにて足ることなりby千利休の意味・解釈・教訓とは?

家はもらぬほどしょくじはうえぬほどにてたることなり千利休

【本日の名言】「家は洩らぬほど 食事は飢えぬほどにて足ることなり」とは安土桃山時代の茶人・千利休(せんのりきゅう)が残した言葉だがその意味とは?教訓・解釈は?千利休って名前は知っているけど実際はどんな人物だったのか?
信長・秀吉と天下人に仕え、茶道を一般国民にまで広めたが最後は切腹させられた千利休とは!?




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「家は洩らぬほど 食事は飢えぬほどにて足ることなり」の意味・解釈・教訓とは?

この言葉の出典『南方録』という茶の湯の作法の秘伝の書物に覚書として冒頭に記載された千利休の言葉である。
(安土桃山時代に茶道の開祖となった天下一の茶匠・千利休の直弟子であった禅僧:南坊宗啓が筆録したのが『南方録』

家は洩(も)らぬほど、食事は飢えぬほどにて足ることなり。

意味としては、家は雨漏りさえしなければいい。食事は飢えない程度にあればいい。

解釈としては、 質素でもほどほどの生活、平凡な暮らしをするのが、人間にとって理想的であるということ。
贅沢を望めばきりがない、最低限でも自然体がいいという教訓の言葉である。

侘茶(わびちゃ)という簡素静寂の境地を完成させた千利休ならではの理念があらわされた言葉。
華美すぎることで心が失われてしまう、見た目の華やかさでごまかさず
質素でも誠意をもって心を込めてもてなすことを美徳とした人らしい表現で
要するに、物事には必要最低限のポイント、何が重要であるのかを見極めることが大事であるという教えにもとれる。

一つの道を極めた人間らしい言葉だろう。

千利休のその他の名言

「頭を下げて守れるものもあれば、頭を下げるゆえに守れないものもある」

価値観の違いから、秀吉の怒りをかって自刃(切腹)させられたというもある千利休らしい言葉

千利休(せんのりきゅう)とはどんな人物?

千利休(せん の りきゅう) 幼名:与四郎
別名(号名):宗易(そうえき),
 不審庵

出典:Wikipedia

1522年堺で誕生〜1591年京都で没(享年69歳)
織田信長、豊臣秀吉に仕えて寵遇されるも秀吉の怒りをかって自害(自刃)
安土桃山時代の茶人・千家流茶道の開祖・日本の茶道の大成者(完成者)

千利休は商家の家に生まれる。納屋衆もしくは魚問屋(ととや)という説が有力である。
商店の跡取りとしての教養を学ぶため、茶の湯の道に入り、堺と京都で学ぶ。

京都では北向道陳、武野紹鴎(じょうおう)に学び、茶会を京都で開き、茶の湯の世界に登場した
大徳寺で参禅、宗易という号名で茶会を開くなど

やがて織田信長の御茶頭(おさどう)となる
(御茶頭とは:貴人に仕え、茶事を司る茶の師匠、ちゃじゅう、茶坊主、役僧)

信長の後には、豊臣秀吉に仕えた。

1585年の秀吉の関白就任に際し、茶会が御所で開かれた
その時に正親町天皇(おおぎまちてんのう)に茶を献じて利休居士という号が贈られた。

秀吉とともに北野大茶湯(大茶会)を開くなどして天下一の茶匠、天下一の茶人の地位を確立した。

侘茶(わびちゃ、「草庵の茶」ともいう)を完成させた

待庵など草庵風の茶室の様式を築き
朝鮮茶碗の使用や、楽焼茶碗の製作指導を行い
多くの弟子の育成など、茶道を民衆の生活に根付かせるなど茶道の発展に多いに貢献したが・・・

千利休の最期は、豊臣秀吉の怒りに触れたという理由で切腹、自害。

なぜ千利休は自刃(切腹)させられたのか?

時の天下人・秀吉に仕え、かなりの地位にまで上り詰めた天下一の茶人がなぜ切腹するに至ったのか?
現在においても、その理由についての定説はなく多くの諸説がある。

この秀吉の怒りをかった原因についてははっきりしていないが
秀吉が利休の娘に横恋慕したためという説もあれば
一説には、大徳寺に自像を置いたためというのが直接の切腹理由とか・・・

これも、前段階に派手好みの秀吉(黄金の茶室など)と
素朴で質素なものを良しとする千利休思想的に対立していた背景があったとか。

直接の切腹命の原因といわれている大徳寺に利休の像をおいたのは、利休自身ではない。
利休が寺の修復に寄付をしてくれたことのお礼にと、お寺が勝手に設置したことだった。

それが大徳寺の山門から利休の像が上から見下ろす形で
天下人を見下ろすとは何事か!と秀吉の怒りを買ったとか。
そして謝りにこなかったとして秀吉のメンツは丸つぶれとなり、「自刃(切腹)せよ」ということに。

切腹の命を告げにきた使者に
最後の茶をたて
「茶室にて茶の支度ができております」
と言い残し、切腹し最期を遂げたと言われている。

しかもその斬首した利休の首を、くだんの利休像に踏ませた上での晒し首としたというのだから
豊臣秀吉の怒りとはいかほどのものだったのか・・・

利休が開祖となった千家流の茶の流れは現在まで
表千家、裏千家、武者小路千家の三千家として継がれている。

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