【本日の名言】 「僕の前に道はない 僕の後ろに道はできる」 by 高村光太郎 (たかむらこうたろう) とは 大正・昭和期の彫刻家・詩人・彫刻家の 高村光太郎 による言葉だが、その意味・解釈・教訓とは?教科書にも載っている『智恵子抄』や『道程』などで有名な
高村光太郎 とはどんな人物?そのほかの名言や関連する本などを紹介
目次
【本日の名言】 「僕の前に道はない 僕の後ろに道はできる」 の意味・解釈・教訓とは?
この言葉の参考出典は 大正3年の高村光太郎 による詩 『道程(どうてい)』 より
高村光太郎による『道程』は2パターンかあり、元々は102行の詩であったが
その『道程』を9行まで圧縮・凝縮したものがこちら↓(102行の詩はこのページの最後に掲載)
9行詩バージョンの『道程』
僕の前に道はない
僕の後ろに道は出来る
ああ自然よ
父よ
僕を一人立ちにさせた広大な父よ
僕から目を離さないで守る事をせよ
常に父の気魄を僕に充たせよ
この遠い道程のため
この遠い道程のため
「僕の前に道はない 僕の後ろに道はできる」 の言葉の意味とは?
9行詩も踏まえてこの名言の意味を考えてみよう。
「道程」(読み:どうてい)とはみちのり、旅程、行程、ある目的(地)に至るまでの道すじ、過程、距離のこと
「気魄」(読み:きはく)とは何物にも屈せず立ち向かう強い精神力、気概、激しい気力、強い心のこと
僕の前に道はない 僕の後ろに道はできる
僕(私)が進む道、目指している人生という道には目的地のような具体的なものはない。
僕の歩んできたあと進んできた後に自らが切り開いた新しい道が出来てくる
ああ、父よ自然よ
僕を自分だけの力で独り立ちにさせてくれた広く大きな父よ
僕から目を離さずに見守り励ましてくれ
常に僕を父なる自然の気魄(きはく)をみたしてくれ
この遠く長く険しい未来への道のりを歩むために
僕の前に道はない 僕の後ろに道はできる
から得られる教訓としては?
自分の人生は自分が切り開き歩んでゆく、進むものであり、自らが歩んだ道が人生という「道」になる
人生には誰かが用意してくれた「道」なんてものは存在しない。自分が選び、自分が切り開いて自分で進んだ後に、自分だけの「道」ができるのだ。独り立ちし、一人で歩くことができるなら、自らの足で自らの人生を進め。それが人生だ。しかし、親や周りの人や環境への感謝も忘れてはいけない、それらすべてを踏まえて君の人生だ。
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道は僕の踏みしだいてきた足跡だ
だから道の最短にいつでも僕は立っている
いくら非日本的でも
日本人が作れば
日本的でないわけにはいかないのである
『高村光太郎詩集』世俗的なものとの妥協を排し、不断の情熱をたぎらせて人生の意味を追求し続けた光太郎の詩は、美しいもの、真実なものに対する善意と愛に満ちている。その歩みの中から93の詩篇を精選し、“「道程」より”“「道程」以後”“「智恵子抄」より”の3部に編んだ。作者(1883‐1956)が生前みずから校閲した最後の詩集である
私はあなたの愛に
値しないと思うけれど
あなたの愛は
一切を無視して私をつつむ
『マンガで読む名作 智恵子抄~深愛~』明治末期、旧態依然とした日本美術界への不満から、荒んだ生活を送っていた光太郎だが、グロキシニアの鉢植えをもって現れた智恵子との出会いによって生まれ変わる。激しい恋愛時代を経て、幸福な結婚生活を送る二人だったが…。史実に基づいた二人の生涯と共に、永遠なる愛の詩集『智恵子抄』を漫画化。
『大東亜戦争と高村光太郎―誰も書かなかった日本近代史』大東亜戦争は侵略戦争なのか?アジア解放の戦いなのか?現代ではなく当時の視点で見つめれば、国のあるべきかたちが見えてくる。戦後のGHQ史観と戦後教育で貶められた高村光太郎と日本の名誉を回復する必読の書。
高村光太郎 たかむらこうたろう とはどんな人物?何をした人?
高村光太郎(たかむらこうたろう)
本名は光太郎と書いて「みつたろう」と読む
1883年 東京で誕生〜 1956年 東京で病没(享年73歳)
大正・昭和期の彫刻家・詩人・歌人・画家
高村光太郎 に関するエピソードや人物像
彫刻家・高村光雲の長男として生まれる
1897年東京美術学校に乳がし、与謝野鉄幹主催の新詩社に入り『明星』に短歌や戯曲などを寄稿した
1906年に渡米し彫刻を学び、翌年には英国ロンドンへ、翌々年にはフランス・パリへ移住しロダンに傾倒しフランスの詩に親しんだ。
1909年帰国後に「パンの会」へ入会、『スバル』『早稲田文学』に評論や翻訳を発表し続けた
1914年に詩集『道程』を出版、長沼智恵子と結婚
『道程』で生命感と倫理的意思にあふれた格調高い口語自由詩を完成
教科書にも採用されるなど日本文学史上、近現代を代表する詩人である
代表作となった『道程』『智恵子抄』などの詩作のほか、ロダンなどの欧米の芸術の紹介や美術批評などによって芸術界に大きな影響を与えた人物である。
『道程』102行詩バージョン(雑誌『美の廃墟』にて発表)
どこかに通じてる大道を僕は步いてゐるのぢやない
僕の前に道はない
僕の後ろに道は出來る
道は僕のふみしだいて來た足あとだ
だから
道の最端にいつでも僕は立つてゐる
何といふ曲りくねり
迷ひまよつた道だらう
自墮落に消え滅びかけたあの道
絕望に閉ぢ込められたあの道
幼い苦惱にもみつぶされたあの道
ふり返つてみると
自分の道は戰慄に値ひする
四離滅裂な
又むざんな此の光景を見て
誰がこれを
生命いのちの道と信ずるだらう
それだのに
やつぱり此が此命いのちに導く道だつた
そして僕は此處まで來てしまつた
此のさんたんたる自分の道を見て
僕は自然の廣大ないつくしみに淚を流すのだ
あのやくざに見えた道の中から
生命いのちの意味をはつきりと見せてくれたのは自然だ
僕をひき廻しては眼をはぢき
もう此處と思ふところで
さめよ、さめよと叫んだのは自然だ
これこそ嚴格な父の愛だ
子供になり切つたありがたさを僕はしみじみと思つた
どんな時にも自然の手を離さなかつた僕は
とうとう自分をつかまへたのだ
恰度そのとき事態は一變した
俄かに眼前にあるものは光りを放射し
空も地面も沸く樣に動き出した
そのまに
自然は微笑をのこして僕の手から
永遠の地平線へ姿をかくした
そして其の氣魄が宇宙に充ちみちた
驚いてゐる僕の魂は
いきなり「步け」といふ聲につらぬかれた
僕は武者ぶるひをした
僕は子供の使命を全身に感じた
子供の使命!
僕の肩は重くなつた
そして僕はもうたよる手が無くなつた
無意識にたよつてゐた手が無くなつた
ただ此の宇宙に充ちみちてゐる父を信じて
自分の全身をなげうつのだ
僕ははじめ一步も步けない事を經驗した
かなり長い間
冷たい油の汗を流しながら
一つところに立ちつくして居た
僕は心を集めて父の胸にふれた
すると
僕の足はひとりでに動き出した
不思議に僕は或る自憑の境を得た
僕はどう行かうとも思はない
どの道をとらうとも思はない
僕の前には廣漠とした岩疊な一面の風景がひろがつてゐる
その間に花が咲き水が流れてゐる
石があり絕壁がある
それがみないきいきとしてゐる
僕はただあの不思議な自憑の督促のままに步いてゆく
しかし四方は氣味の惡い程靜かだ
恐ろしい世界の果へ行つてしまふのかと思ふ時もある
寂しさはつんぼのやうに苦しいものだ
僕は其の時又父にいのる
父は其の風景の間に僅ながら勇ましく同じ方へ步いてゆく人間を僕に見せてくれる
同屬を喜ぶ人間の性に僕はふるへ立つ
聲をあげて祝福を傳へる
そしてあの永遠の地平線を前にして胸のすく程深い呼吸をするのだ
僕の眼が開けるに從つて
四方の風景は其の部分を明らかに僕に示す
生育のいい草の陰に小さい人間のうぢやうぢや匍ひまはつて居るのもみえる
彼等も僕も
大きな人類といふものの一部分だ
しかし人類は無駄なものを棄て腐らしても惜しまない
人間は鮭の卵だ
千萬人の中で百人も殘れば
人類は永久に絕えやしない
棄て腐らすのを見越して
自然は人類の爲め人間を澤山つくるのだ
腐るものは腐れ
自然に背いたものはみな腐る
僕は今のところ彼等にかまつてゐられない
もつと此の風景に養はれ育はぐくまれて
自分を自分らしく伸ばさねばならぬ
子供は父のいつくしみに報いたい氣を燃やしてゐるのだ
ああ
人類の道程は遠い
そして其の大道はない
自然の子供等が全身の力で拓いて行かねばならないのだ
步け、步け
どんなものが出て來ても乘り越して步け
この光り輝やく風景の中に踏み込んでゆけ
僕の前に道はない
僕の後ろに道は出來る
ああ、父よ
僕を一人立ちにさせた父よ
僕から目を離さないで守る事をせよ
常に父の氣魄を僕に充たせよ
この遠い道程の爲め
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