世界中に散らばるフランス領の国々って国であって国でない!?
『世界にある国の数はいくつある?』日本国政府が国家として承認している国の数は196カ国だけど、国連加盟国は193カ国・・・国連加盟してる国だけが国の数じゃない?「国連非加盟の国ってどのくらいあるの?」世界にある国連非加盟の国(地域)についてフランス領編です。
フランスといえば
ヨーロッパを代表、世界を語る上での中心の国、そして現代でも世界を代表する先進国、常に最先端の近代的な国家。
EU(欧州連合)でもリーダー格で国連やNATOなど国際的な安全保障においても常に常任理事として君臨しつづけている
そのヨーロッパを代表するフランスが海外に飛び地で海外領土を持っているというのは
なにも驚くべきことでもないが、調べていくとその多さに驚かされる
フランスの正式名称は
フランス語でRépublique française『フランス共和国』である
ヨーロッパ大陸西部にあるフランス本土の他、世界中に複数の海外地域、領土を持つ共和国である。
目次
こんなにもあったのか!ヨーロッパ外のフランスの海外領土!!
これら全部がフランスを本国に持つ国(地域)って知ってました?
グアドループ |
海外県(1946年以降) |
マルティニーク |
海外県(1946年以降) |
フランス領ギアナ |
海外県(1946年以降) |
レユニオン |
海外県(1946年以降) |
マヨット |
海外県(2011年以降) |
フランス領ポリネシア |
海外準県(旧・海外領土) |
サンピエール・ミクロン |
海外準県(旧・海外領土) |
ウォリス・フツナ |
海外準県(旧・海外領土) |
サン・マルタン島 |
海外準県(2007年以降) |
フランス領南方・南極地域 |
海外領土 |
ニューカレドニア |
特別共同体 |
フランスの海外領土ってどうゆうこと?
法律的、行政的な見地からするとこれらの領域は本土とは非常に異なっている。
フランス共和国憲法によれば、フランスの法律は国内全土に於いて施行される事となっているが、
これらの領域では独自の法律が制定されており、この原則には反している。
これらの領域は、国防、国際関係、貿易、貨幣、法廷、統治等の特殊な分野を除いた部分では
独自の法律を制定する事が許可されている。
先述の通り、居住地域では都会であろうと海外領土であろうと、国民議会や元老院に対して代表者を有し、
これらの領域はその地域が有する議会と国会との二重統治体制となっている。出典: フリー百科事典『ウィキペディア』(Wikipedia)
フランス領 海外県の国々
グアドループはどんな国?
フランスの海外県としてのGuadeloupe グアドループ、グアドルーペがある場所は
カリブ海上、西インド諸島島嶼群
リーワード諸島の一部
グアドループの基礎情報
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グアドループの歴史と近況
1943年 コロンブスが上陸
1635年 フランスの領土であることが宣言され 黒人奴隷制によるプランテーションで栄える
1759年〜1763年 英国軍により占領される
、その後フランスが取り戻すが、
幾度に渡りイギリス・フランス間でグアドループを巡り攻防が繰り広げられる
1810年 英国軍が再びグアドループを占領する
1813年 英国軍より、スウェーデンにグアドループを譲渡
1814年 スウェーデンからフランスへ返還される
1848年 奴隷制度廃止
第二次世界大戦終結後 1946年 グアドループはフランスの『海外県』となる
1980年代には独立運動が盛んになった
1984年 グアドループ独立派『カリブ革命同盟(ARC)』によって、
フランス本土で過激な爆弾テロを起こしたためフランス政府はこの組織を非合法とした。
2007年にグアドループに属していた「サン・マルタン島」と「サン・バルテルミー島」がグアドループを離脱し、
それぞれ単独でフランス海外準県となり分離した。
グアドループの経済の中心は砂糖とバナナの農業生産・輸出と観光業であるが、
財政的にはフランス本土や、EU(欧州連合)からの援助によって成り立っているため完全独立は現実的ではない
だろう
マルティニークってどんな国?
フランス領(仏領)海外県Martinique (マルティニーク)がある場所はカリブ海上
西インド諸島 ドミニカ国の南、セントルシアの北にある島
世界で最も美しい場所とコロンブスが言った島としても知られる
マルティニークの基礎情報
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マルティニークの歴史と近況
1502年 コロンブスによって発見 。カリブ人の抵抗によってヨーロッパ人の侵入を長年妨げた
1635年 フランス人が上陸した時、すでにイギリス人が入植していたがフランスが主導権をとった。
1658年 ヨーロッパ人によってマルティニークの先住島民を全て虐殺し、絶滅させた。
島は奴隷貿易によって連行されたアフリカ系黒人奴隷をサトウキビプランテーションで働かせ農業によって発展した。
マルティニークは植民地化され、肌の色によって差別される階層社会が成立。
1762年 英国軍によって占領
1763年 フランスはカナダと引き換えにマルティニークを確保した(パリ条約)
1789年
フランス革命がおこる
1791年 黒人奴隷解放を求めて大暴動が飽きたが鎮圧された
1794年~ 英国軍によって占領
1802年 マルティニークはフランスに返還された。
奴隷制の廃止が決議されたが、
ナポレオン(1世)はカリブ海地域の植民地での奴隷制の復活を考えたため
マルティニークでは奴隷制が再導入された
(1804年にハイチは革命によって独立を達成した)
1848年 奴隷制が廃止されたが、廃止時期の延期(先延ばし)によって黒人奴隷の暴動が発生する
マルティニーク人のフランス国民への同化政策がとられた
1902年 マルティニークのプレー火山が噴火し、それまで中心都市であったサンピエールの住民の大多数死亡した。
これによって島の行政中心がフォール・ド・フランスに移転した。
第二次世界大戦中 フランスはナチス・ドイツに降伏、マルティニーク島内ではナチズム風の人種主義がとられた。
これに反発し、占領軍に対する抵抗レジスタンスが蜂起した
第二次世界大戦終結後 脱植民地化が図られる。
1945年 黒人文学者が市長に当選したが、フランス同化政策をやむなくとることに。
1946年 マルティニークはフランスの海外県となる。
フランス政府はマルティニークの自治は認めず、
当時のフランスの首相であったシャルル・ド・ゴールはマルティニークを『海の上の小さな埃』と揶揄。
1950-60年代からフランス植民地による独立運動が盛んな時期にも、
マルティニークではフランス同化政策から脱することができなかった。
現在もマルティニークはフランスの海外県としての地位のままである。
マルティニークの経済を支えるのは砂糖、ラム酒、バナナなどの農業と、観光業であるが、
フランス本国からの援助に頼らざるを得ない状態であり、失業率も高いため、職を求め、
多くのマルティニーク人はフランス本国へ移住している状態である。
フランス領ギアナってどんな国?
日本語での呼称『仏領ギアナ/フランス領ギアナ』は
英語:French Guiana (フレンチ・ギアナ)をそのまま日本語に訳したもの。
フランス語ではGuyane française(
ギュイヤンヌ・フランセーズ
)が正式
フランス領ギアナがある場所は非常にややこしく
南アメリカ(南米)大陸北東部、
スリナム共和国(旧オランダ領)の東、ブラジルに挟まれた地域である。
フランス領ギアナの基礎情報
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フランス領ギアナの歴史と近況
フランス領ギアナの先住はカリブ族アラワク族などアメリカの先住民族
1604年 フランス王命によってギアナに港を建設し、アマゾン調査隊を送り、徐々にギアナ入植がはじまった。
1638年 カイエンヌの町が設立
1664年 本格的な定住が始まる
1667年 ギアナ地域をオランダ・英国と分割。
(イギリス領ギアナは現在のガイアナ協同共和国・オランダ領ギアナは現在のスリナム共和国である)
1789年 フランス革命後、フランスはギアナを流刑植民地とし、犯罪者が送られた。
ギアナは『呪われた土地』、『悪魔の島』などと呼ばれた
1809年 ポルトガルに占領される
1814年 フランスに返還
(パリ条約)
1858~1900年までゴールドラッシュで沸いたギアナには多くの人が、黄金を求めてやってきて人口が急増する
第二次世界大戦終結後
1946年 フランス領ギアナはフランス海外県に変更
1964年 フランス首相シャルル・ド・ゴールによってギアナにフランス国立宇宙センターを建設した。
フランス領ギアナの経済の中心は漁業・金の採掘だが、フランス本国の経済援助に依存している。
フランス領ギアナは近隣から流れこむ不法移民
の問題と、スリナムからの金の盗掘者の問題を抱えている。
特にスリナム国境には熱帯雨林の川が流れており国境警備がむずかしく国境線についての議論がある
現在フランス領ギアナのみが南アメリカ大陸で唯一の非独立地域。
レユニオンってどんな国?
レユニオン(仏領)Reunionがある場所はインド洋上、マダガスカル島の東である。
レユニオンの基礎情報
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レユニオンの歴史と近況
1507年 ポルトガル人によって発見当時は無人島であった
1640年 フランス人が上陸し、フランスの領土宣言
1642年 現在のレユニオンは『ブルボン島』と命名された
1665年 フランス東インド会社によって植民地開拓が始まる
フランス革命後 『レユニオン島』と改名される
1806年 『ボナパルト島』と改称される(ボナパルトは皇帝ナポレオンの名前)
1814年 英国軍に占領されまた『ブルボン島』と改称される
1848年2月革命後 また『レユニオン島』と改名される
第二次世界大戦後 1946年にフランスの海外県となる。
レユニオンの経済を支えるのは農業、ラム酒生産などで ある。
レユニオンは
コーヒーの原種の一つ、ブルボン種の原産地である。
1942年以降途絶えていたコーヒーの輸出が2007年に再開された。
観光業にも力を入れており、レユニオンでは世界一過酷なトレラン(トレイルランニング)
ウルトラトレイルレユニオンの地形をいかした162kmにもおよぶアップダウンの激しいアドベンチャーコースを走る
『グラン・レイド』が行われる会場としても有名である。
マヨット Mayotte(仏領海外県)ってどんな国?
マヨット(仏領) Mayotte
英語読みだと
マイヨット
現地語ではMahore”マオレ”
フランスの海外県であるマヨットがある場所はアフリカ大陸の南東、
モザンビーク海峡
コモロ諸島に属する島である
マヨットの基礎情報
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マヨットの歴史と近況
マヨット島は元々、マダガスカルの王の属領の島である
1843年
海賊からの被害に悩む島民からの要請に基づき、
マダガスカルの王からフランスがマヨットを買収し、フランスの保護領となり
コモロ諸島とともにフランスの植民地となった。
1912年 フランス領マダガスカルにマヨットも編入された
第二次世界大戦中は英国海軍基地がマヨットに置かれた
1946年 マヨットは自治領となる
1958年 マダガスカルがフランス共同体の自治共和国となったことに伴い
マヨットを含むコモロ諸島はフランスの海外領土となる。
1961年 コモロの内政自治が認められる
1962年 コモロ諸島の首都機能がマヨット島からグランドコモロ島に移転
1974年 コモロ諸島全域による、フランスからの独立を問う住民投票が行われた
結果、
マヨット島のみが唯一独立に反対票が多数であった。
このため、フランス政府とコモロ諸島自治政府で協議をしている最中に勝手にコモロ諸島の独立宣言がだされてしまう
マヨット島では再度住民投票を行い、フランスに残留した上での自治拡大が賛成多数となった
コモロ自治政府は国連に裁定を委ね、国連総会はマヨット島はコモロに帰属することを決議したが
フランスはこの決定に従わず、マヨットの自治を拡大し、フランスの海外領土、海外準県とした
2009年の住民投票ではフランス海外県になることが決定し
2011年 マヨットはフランス海外県に昇格した。
2014年以降フランス本国と同様にEUの正式な一部となった。
マヨットの経済を支えるのは
農業が中心だが、
食料自給レベルには達していないためフランスからの輸入、援助に依存している。
マヨットへはアクセス面が難しく、観光業は発展していない。
フランス領 海外準県の国々
フランス領ポリネシアってどんな国?
フランス語でPolynésie française
日本語の『フランス領ポリネシア/仏領ポリネシア』は英語の French Polynesiaフレンチポリネシアの対訳
フランス領ポリネシアのある場所は南太平洋上 ポリネシア地域の諸島群
フランス領ポリネシアの基礎情報
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フランス領ポリネシアの歴史と近況
フランス領ポリネシア地域の先住はトンガやサモアなどポリネシア系民族
1595年 スペイン人がマルケサス諸島の4島に上陸
1606年 ポルトガル人がトゥアモトゥ諸島上陸
1769年 イギリス人がタヒチ島に入り、18世紀後半にはフランス人や、クック船長などヨーロッパ各国の人がタヒチを訪れている。
1842年 フランスの圧力にまけタヒチ島およびモーレア島がフランスの保護領となる。
1880年以降 タヒチ島はフランスの植民地となった
第二次世界大戦中はフランス本土がナチスドイツに占領されたがタヒチは自由フランス側につき連合国側に協力した。
大戦終結後1949年 フランス海外領土となる
1957年 自治権の拡大が承認されたが、現在もなお国連の非独立地域リストに掲載されている。
フランス領ポリネシアの経済の中心は黒真珠の輸出であり世界シェアの90%以上だが、
財政的にはフランス本国からの経済援助によって支えられている
。
またポリネシア地域の観光業がかなり盛んで、主要島のほとんどで観光産業が発達している。
ポリネシアのムルロア環礁ではフランスによる核実験が1996年まで行われていたという負の遺産がある。
サンピエール・ミクロン(ミケロン)ってどんな国?
Saint-Pierre and Miquelon サンピエール・ミクロン はサンピエール島とミクロン島からなる
サンピエール・ミクロンがある場所は北米大陸の東、
北大西洋上、カナダのニューファンドランドの南カナダセントローレンス湾の島々
フランスの海外準県
サンピエールミクロンの基礎情報
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サンピエールミケロンの歴史と近況
サンピエール・ミクロンの歴史上、 先住していたのはアメリカ先住民のミクマクと考えられている
1520年 ポルトガル人によって発見
1536年 フランス人が上陸し『サン・ピエール島』と命名
1702年 英国軍によって破壊される
1713年 英国領となる(ユトレヒト条約)
1763年 英国領からフランスへ割譲された(パリ条約)
が、しかしその後で
数度にわたり、英国が占領を繰り返すが最終的にフランス領(フランス海外領土)に戻る
第二次世界大戦中、フランスがドイツに降伏したため、
サンピエール・ミクロンは(フランスの)ヴィシー政府管轄の領土となる。
カナダによるサンピエール・ミクロンの占領計画があったものの実行されず
。
1985年フランス海外領土から特別自治体に移行
2003年 フランス海外準県となる
サンピエールミケロン周辺の水域ではタラが多く取れる豊かな漁場でありフランスの重要な漁業基地として経済を支えている。
ウォリス・フツーナってどんな国?
(仏領)ウォリス・フツナは英語でWallis and Futuna
フランス語では
Collectivité des Îles Wallis et Futuna ワリス・フテュナ諸島
ウォリス・フツナがある場所は南太平洋上:ハワイとニュージーランドの間にある島々
フランス領 海外準県
ウォリス・フツナの基礎情報
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ウォリス・フツナの歴史と近況
先住はポリネシア系民族であるとみられる
遺跡などから12〜16世紀ごろまでトンガ王国の支配圏であったと考えられる
伝統的な首長をおく王国(ウベア島のウベア、フツナ島のシガベ、アロフィ島のアロ)の3つの王国
であった
1616年 オランダ人によってフツナ島が発見
1767年 イギリス人によってウォリス島が発見された
1837年のフランス人宣教師が到着したことにより、フランス人によって植民地開拓がはじまった
1887年 フランスの保護領として調印
1888年 地域の島々はフランスのニューカレドニア植民地の管理下としてフランス保護領となる。
1917年 フランス植民地・ウォリス・フツナとなるが、支配はニューカレドニアによるものだった
1959年 ウォリス・フツナ単独での独立の是非を問う住民投票の結果、
ニューカレドニアの一部から分離し、フランスの海外領土となる
2003年 フランスの海外準県に移行した。
ウォリス・フツナの経済を支えるのはココヤシや漁業だが、輸入赤字が多く、
フランス本国からの援助に依存しており、職を求めてニューカレドニアに出稼ぎへ行く人も多い。
サン・マルタンってどんな国?
フランス海外準県サン・マルタン
フランス準県のサン・マルタンの基礎情報
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サン・マルタンの歴史と近況
1493年 スペインのコロンブスによって発見し、サン・マルティン島と命名した
発見当初スペインはサンマルタンを重視しなかったのでフランスとオランダによって入植が始まった。
当初は海賊の隠れ家として使われていたとみられる
1633年 スペインがオランダから島を奪い返し、入植者たちを追い出した
スペインとオランダは30年も戦争を繰り広げ、オランダによる奪回作戦が繰り広げられたが、失敗した。
しかし三十年戦争が終結すると、スペインはこの島への興味を無くし、このサン・マルティン島を放棄した。
無主となった島にはオランダとフランスが再び入植し、争うことになるが、
両国ともに、全面戦争を避けるために、条約によって、島を半分こにして分けた。
しかし、ここにも首をつっこむのが英国である。
英国とフランス・オランダの激しい争いによって、1815年のパリ条約で現在の国境線が確定するまでに
なんと16回も島の領主が交代していた。
1848年 フランスの奴隷制が廃止、奴隷制度が廃止すると島の経済は衰退した
1939年 フランス・オランダ双方での免税港を宣言した
1980年代に大規模な観光開発を始め観光産業に注力。
現在は観光地として観光産業と金融関連が経済の中心である。
オランダ領側に渡るのにパスポートは不要である。
オランダ領シント・マールテンについてはこちらの記事を参照ください↓
この国知ってる?国連非加盟国(地域)オランダ領編 オランダはヨーロッパだけじゃない?
最も独立に近い国?ニューカレドニアってどんな国?
フランスの特別共同体ニューカレドニアNew Caledonia は
現地語ではカナキー(Kanaky)と呼称
ニューカレドニアがある場所はオセアニア、オーストラリアの東、南太平洋上の島々
ニューカレドニアの基礎情報
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ニューカレドニアの歴史と近況
ニューカレドニア 先住民族はメラネシア人、ポリネシア人、パプワ系などの混血
1774年 クック船長(キャプテン・クック)によって発見されニューカレドニアと名付けられた。
英米の捕鯨会社などヨーロッパ人によるニューカレドニア先住民への横暴(詐欺や不誠実な取引)によって、ヨーロッパ人とニューカレドニア住民の関係性は敵意にかわり緊張状態であった。 ニューカレドニアなどの周辺地域の島の先住民を捉え、プランテーションで働かせる奴隷貿易の舞台となった島である。
1853年 ニューカレドニアはフランス領と宣言され、フランスの流刑植民地として重罪犯など犯罪人が送り込まれた。
ニッケル鉱山の発見によって、流刑植民地時代から鉱山の島へと変わり、ヨーロッパや日本を含むアジア人などの労働者が流入した。
先住のカナク人は人種隔離政策によって差別され疫病などの蔓延によって激減した。
第二次世界大戦中のニューカレドニアはアメリカ軍の拠点となった
第二次世界大戦終結後 フランスの海外領土となった
1960年代以降、独立運動が激化する
1985年 先住民文化復興活動家たちによって『カナキー』という独立国家を樹立することを主張
指導者が暗殺されるなど大暴動が起き、ニューカレドニア全土に非常事態宣言が出された。
独立過激派とフランス特殊部隊による攻防が繰り広げられた。
1987年 ニューカレドニア独立を問う住民投票では98.3%が独立反対票を投じてフランスへの残留が決定したが、
自治の拡大をフランス政府が約束した。が、しかし独立自治運動や協議は続いた。
1998年 ヌーメア協定によって
ニューカレドニア住人には、フランス市民権とは異なるニューカレドニア市民権が導入された。
フランス国旗とはことなるニューカレドニア独自の国旗(カナキー国旗)を制定し、段階的に独立へ向けて動いている。
2018年11月4日にフランスから完全な主権を獲得し、ニューカレドニアの独立するか否かの是非を問う住民投票が行われた。
結果は独立反対票が多数(56.4%)となり現在はフランスの共同体国家としてとどまっている。
今後もまた2020年と2022年に独立の是非を問う住民投票が行われる権利がある。
もしもニューカレドニア独立派が多数となった場合にはニューカレドニアは『カナキー』となるが
外交、国防、司法、通貨発行などに関しての最終責任はフランスが負うこととなる。
ニューカレドニア カナク・アイデンティティの語り――ネーションの語り・共同体の語り・文化の語り
フランス領南方南極地域 とは?
French Southern Lands (FR) フランス南部と南極地方はフランスの海外領土である。
アフリカ南東部と東部インド洋南部の島々、マダガスカル近郊の無人島群
中心はポルトーフランセ(ゲルゲレン諸島)
イルアムステルダム、イル・サン・ポール、ヨーロッパアイランド、グロリオソ島、トロメリン島など
インド洋無人島群”
基本的に無人の島ばかりだが、
軍関係者およ研究者が数人いる場合がある。